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チェット・ベイカー②ジャズを超えた深さと軽さ

ジャズ
05 /16 2008
 チェット・ベイカー研究者としては、トランペットのテクニカルな点の指摘のみならず、ジャズ界での立ち位置、音楽の成り立ちといった総論的な部分にも触れておきたい。誰かが言った。「チェット・ベイカーはジャズ界のビーチボーイズさ」・・言い得て妙だ。

 ウエスト・コースト。多分そんなイメージなのだろう。年中太陽が照りつける温暖な気候の中で、汗と土(?)にまみれた直球ジャズなど、一体誰ができようか。もちろんチェットも例外ではない。

 

 

 トランペッターのジャック・シェルドンがチェットに「グランド・ピアノ買ったんだぜ」と言ったら、チェットは不思議そうな顔で「なんで車買わないんだ?」と尋ねたという。要するに「楽器なんか買う金があったら車買いなよ」と言っているのだ。50年代当時、不況下のNYで貧乏暮らしをしていた黒人ジャズマンが聞いたら思わず殴り倒してしまいそうな科白である。助手席に彼女を乗せたジャガー(英国の車です)で海岸道路を走りながら、何となくスタンダードを歌っていたところ、結構イケるというので「Sings」を録音。これが大ヒットとなり、チェットはまさにカリフォルニアの太陽のような存在となっていった。温厚柔和な人格者として知られるあのクリフォード・ブラウンでさえ「なんで人気があるのかさっぱり分からん」と嫉妬したほどだ。

 

 

 とはいいながら、「Sings」は一球入魂の気合を込めた超力作だと、私自身は評価する。歌について言えば、とにかくこの頃は丁寧。フレーズの切れる寸前にふとかけるヴィブラートに天性の巧さを感じる。そして随所に散りばめられたトランペット・ソロは非常にクオリティの高いものだ。「There will never be another you」のイントロ、「But not for me」の途中のソロなど、とても閃きとは思えないメロディラインである。それでいて、全体に漂う独特の軽さ。この軽さこそ、チェットを象徴するキー・ワードではないか。晩年のシリアスな演奏ですら、根底部分にはまるで通低音のように軽さがひっそりと流れている。一見軽そうでいて実は重いマイルス・デイヴィスとは対照的なキャラだ。ウエストコーストの血筋だな、と思う。人間、出目は隠せない。

 

LiveatNewmorning.jpg

 軽いといえば、60年代にトランペットを盗まれた際に、ファンから貰った凹のあるフリューゲルホーンを何年か使って、多くのアルバムを吹き込んでいる。気に入ったのかも知れないが、普通のトランペッターだったらトランペットを買いに即楽器店に走るだろうに。軽い、言い換えれば楽天的な性格である。だからヤク代の代わりに前歯を叩き折られたという話も、確かにキツい話ではあるが、悲惨さの中に一抹の可笑しさが漂う。悪いけど。そうしたチェットのキャラは、例えれば「怒られてさんざん謝っておきながら、遠くから舌を出す子供」のようだ。

 

 

一般にチェットの演奏スタイルは「昔から変わっていない」と言われる。果たしてずっとバップだったのか。ジャズマンをカテゴライズするのはあまり好きではないが、そもそもバップ自体、ジャズの一つの形式に過ぎず、ツー・ファイヴの曲をコード通りに演奏すれば、それがバップといえるのかは大いに疑問だ。コード分解を中心とした演奏アプローチ、というのであればコルトレーンの方が遥かに忠実なバップ・ミュージシャンである。個人的な思いとしては、チェットの音楽はメロディーのフェイク、或いはまったく新しいメロディーの創造、いわば「瞬間作曲」の作業に近いような気がする。「変わっていない」のではなく、「常に新しいから変わる必要がない」のだ。おそらく、本人にはコード分解している感覚はあまりないのだと思う。

 

 

 ジャズは結果的に見ると、黒人が己を主張し始め、主張が思想となった瞬間に、上り坂から下り坂に折り返したのではないか。60年代、マックス・ローチらに代表される「怒れる黒人たち」が、怒りのフルパワーをジャズにぶちまけてきた。バップなどの形式のフィルターを通さぬ、純粋な怒りや主張というものは、聴いてて疲れる。私は本来、音楽に個人的な怒りや主張を持ち込むべきではないと考えている。限定的な感情は音楽の幅を狭めてしまうからだ。第一、黒人の怒りを聴かされても、よ~分からん。よく「ブルースは黒人の魂、日本人には難しい」と言う日本人がいるが、そんな馬鹿な。日本人には日本人のブルースの捉え方があるだろう。「こうあるべき」と「べき」論で物事を考える、ましてや音楽を考えるのは、それこそ愚の骨頂だと、私は思う。60年代、己のアイデンティティを主張し始めた黒人ミュージシャンは、必然的に「べき」という枠に囚われていくようになった。

 

 

 一方でジャズは、形式からの脱却を模索しつつ、次の形式を探すという皮肉な循環に陥っていた。その意味で最終到達地点はフリー・ジャズだった訳だが、フリー・ジャズ自体が形式化するのにそう時間はかからなかった。ここにきて「自由は形式を排除することにあらず」と知るのである。80年代の世代交代で振り出しに戻ったジャズ界は、ウイントン・マルサリスを筆頭に、いきなり形式を尊重する方向に180度転換する。ウイントンは、今では伝統文化としてのジャズの保存事業のようなことをやっており、殆ど安来節演芸館で上演される安来節と変わらない様相を呈してしまっている。まぁそれはそれで構わない。

 

 

 チェットに話を戻すと、そんな激動のジャズ・シーンにあって、終始スタンダードを演奏し続けたチェットのようなプレーヤーは、どちらかと言えば異色の存在だろう。そのスタンダードのアプローチが、晩年に近付くほどより自由に、より深化してくるのだから恐れ入る。そう。スタンダードを普通に演奏することは実はとても自由なのだ。素材よりも料理の仕方、木を見て森も見ていたようなジャズマンだ。チェットの「深くて軽い」演奏は、いつどんな場面でもフィットする音楽である点も、嬉しい。朝から「ジャイアント・ステップス」を聴くのは無理でも、「Sings」なら聴ける。それでいてじっくり音楽を聴き込みたい夜などでもOKなのだから、実に重宝する。歳をとって急にスタンダードを演奏し始めるジャズマンは多いが、チェットは生涯、スタンダード・プレーヤー。やはり年季が違う。

 

 

 

 

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はじめまして

はじめまして
うろうろしてたココにたどり着きました。
いろんな方のブログを読ませていただいて
エネルギー吸い取る。。いや、いただきたく
コメントさせていただきました(笑)

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http://masumasu.iiyudana.net/

jazz bird

ライフワークはジャズ・トランペット。好きなトランぺッターはトム・ハレル、チェット・ベイカー、パオロ・フレス、市原ひかりさん、山本ヤマさんetc.夏の海が好き。

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