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音楽が内包するものについて

ジャズ
10 /09 2008

 前にも書いたかも知れないけど、私がジャズを演奏している理由は、それが即興演奏の洗練されたフォーマットだからである。何故即興演奏を志向するのかといえば、それが最も自分に適した表現方法だから、と言うほかない。それでは一体、何を表現するのか。何を表現したいのか。「自分を表現する」と言うのは簡単だが、では自分とは何か。そんなことどうでもいいという方もおられるだろうけど、音楽がアートである限り、やはりどうでもいいでは済まされないと私は考える。いかがだろうか。

 

 

 この問題を考える際に有益なヒントを与えてくれたのが、スイスの精神科医で心理学者の、故カール・グスタフ・ユングだった。フロイトと同時代に、人間の深層心理について研究していた人だが、後に方向性の違いから決別。より広い無意識の定義を確立する。ともすればオカルティズムと批判されがちなテーマを、徹底して科学的な手法で証明しようとした。

 

 

 ユングの唱える概念で最も興味をひくのが、「集合的無意識」というもの。簡単にいえば、人間の心の底の、自分でも知覚できないところには、個人を超えた集団や民族、人類の普遍的な記憶が刻まれているというもの。その意味で、人類は心の奥底ではつながっているのだといえる。同様に、植物や動物、宇宙のすべてのものと、根底ではつながっていると、私は思っている。

 

 

 先日の県内の経済小冊コラムに、米子市内の税理士(FP?)の方が「鉄は内部を腐食から守るために、サビで外側を覆う。無機物のはずの鉄が自己防衛を図って錆びていくとは、驚きだ」と書かれていた。なるほど、と思った。私達は鉄には意志など無いものと勝手に思い込んでいる訳だが、そうではないと。ちなみにこの方はほかにも「時間というものは本当は存在しない。私達が時間という概念を規定しているだけに過ぎない。時間ではなく、変化があるだけ。変化には個人差があるので、歳よりも若い人もいれば、老けた人もいる。時間を規定しない人は歳よりも若く見える」と、経済誌らしからぬ含蓄のあるコラムを書かれていた。

 

 

 卑近な例で申し訳ないが、「つながっている」という点については、先日、私の頭に何故か不意に「マジカルたるるーと君」という言葉が浮かんだ。全然、知らないし興味もないアニメキャラクターなのに、突然イメージしてしまった。不思議に思って、暫く後で奥さんに話すと、何と、彼女も「マジカルたるるーと君」という言葉が頭に浮かんでいたそうだ。勿論、両者の間で「マジカルたるるーと君」が話題になったことは一度もない。人は、意識の奥のどこかでつながっている。

 

 

 アートは、そうした全宇宙の根底に共通する意識を作品を通して具現化したものだと思う。先日大阪で、オブジェのアーティストのアトリエを訪ねたのだが、これは強烈だった。螺旋のイメージを通して宇宙をオブジェで表現していた。六畳ほどの部屋いの中央に、鉄の螺旋がぽつんと置いてあるものだから、ちょっと驚く。これに対して、音楽は楽器自体の構造が12平均律に基づいているだけに、少し洗練され過ぎているきらいがあると感じた。

 

 

 

 少し前に瞑想と音楽のテーマでブログを書いたのだが、その際のコメントにもあったように、音楽の原型は、やはり神に対する祈りに求められる。現代で言うハーモニーは音を重ねた際の対比を指し示すのに対して、原型のハーモニーは、単音での響きそれ自体が、宇宙とどう共振するかが重要だったと推察する。これらの観点から、祝詞などは音楽の原型を今に伝えているものだと思う。ちなみに先日購入したCDは日本語の起源と言われる「カタカムナ」で、祝詞の原型とあって、あまりにも完全だ。最近は専ら、このCDばかり聴いている。ジャズを含む現代の音楽が何だか隙だらけに聴こえてしまって困る。ただ、隙がある部分、良かったりもするけど。

 

 

 先日書いた、祝詞奏上が天候に影響を及ぼす話は、これはあり得るだろうと率直に感じる。「あり得る」ではなくて、もともと神=自然との対話のための様式として祝詞が存在するのだから、むしろ影響を及ぼして然るべきだろう。多分、古代の日本人は我々が想像する以上に、自然とのつながりの中で暮らしていたに違いない。

 

 

 

 それとは直接関係はないけれど、社会心理学、トランスパーソナル心理学専攻する心理学者でありながら、研究が高じて宮司の資格も取得した実践派の中村雅彦・愛媛大学教授の著書などを読むと、人間の心が事象に影響を及ぼすメカニズムが、実践的かつ論理的に書いてあって、非常に読みやすい。

 

 

 

 音楽に限らず、アート全般に言えることだが、集合的無意識の部分からどのように個人的なものを引き上げるかが鍵のような気がする。その点で、生き方、物の考え方、物の見方などがすべて関連してくるように思う。

 

 

 

 

 

 

 

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コメント

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先のノーベル賞受賞の報道でキャスターの“この受賞によって我々の生活にどのような影響があるのか?”との問に対して、“直接の影響というよりは生きる上での潤いのような…”との答えがあったが、音楽もまた目先のことだけでなくどこか深いところでの表現が必要ではないかと思ったりする。上手いに越したことはないが、強い、又は寂しい、哀しい眼差しのようなものを感じることができない。そう、人はあまりにも音楽に心地よさを求め過ぎている。

No title

 手段が何かはさして問題ではない。というか、全然問題ではない。

 エリックドルフィーはマルチプレイヤーであるが、マルチであることにさして意味はないと思う。音楽に限らず、その表現方法が自分に馴染むかどうかであり、あとは実践するのみである。

 私は、研究を生業としているが、そこで感じるものと、ジャズを演る時の感覚は、なんら違わない。「イデア」を実現したいという思いだけである。

 この度、ノーベル賞を受賞した下村氏はGFPという蛍光タンパク質を発見した人である。実際私も、このGFPという遺伝子を実験に活用しており、素晴らしい発見をした方だと思っている。氏は十数年間かけて100トンを超えるクラゲを使ったそうだ。世間はその尋常ではない努力をかっているようだが、それは本質ではない。この長い期間は実験者としてほぼ致命的である。普通は実験内容を変えるのが当たり前である。何故変えなかったのか?結果ではなく、その姿勢なのである。Artに携わる人はより共感出来るのではなかろうか。そういば、利根川進も3年間何も成果は出せなかった(やや短いと感じるかもしれないが、この期間も十分すぎるほど致命的な期間である)。

 結果を求めすぎる世の中は、何か結果と、目的を勘違いしている。iPS細胞で有名になった山中教授に関して「その後の研究成果が思わしくない」、と批判が上がった時期がある。まあ、いいじゃないですか。そっとしてあげといて下さい、と思う。幸いなことに、先日再び大きな成果をあげられたようですが…。お疲れ様です。

 神、自然、音楽、研究…。特に大きな違いは感じない。
私が一番強い嫌悪感を感じるのは、「畏れ」を知らない人である。「イデア」など理解出来ようはずもない。社会は何か間違った方向に向かっている気がしてならない。

 そういえば、「イグノーベル賞」に粘菌の研究者が選ばれた。頭脳を持たない「菌」が迷路を解いてしまうというものだ。粘菌は脈打ちながら伸びていき、その姿かたちは人間の血管とそっくりである。偶然とは思えない。南方熊楠もその虜となった一人だった。

 スタンスは全く同じでも、かたや「イグノーベル賞」。どちらも甲乙つけ難い内容である。まだまだ日本人も捨てたものではない。ただ、これらほぼすべての人が日本を離れていることに日本人は気づくべきである。
 

No title

 良くも悪くも商業ベースの音楽が圧倒的に多いですからね。それはそれで結構なことですが、心地良さという点では温泉に浸かっていた方が余程心地良いと思いますし、ことさら音楽に求める必要もないのかな、と。私自身は、そうした商業ベースで制作されたアルバムも数多く所有していますが、ファストフードと同じで、味わいがないです。ただ幸い、近年はパソコンの普及で、手軽にCDが作れるようになったので、商業ベースに乗らない優れた音楽を聴くことも可能となりました。喜ばしいことです。
 アートは、本来、自己の深いところで表現するものだと思っています。それでなければアートではないでしょう。と言うと、「俺の音楽は芸術じゃねえ」と仰られる方もおられますが、「だったら何?」と逆に問いたいですね。

jazz bird

ライフワークはジャズ・トランペット。好きなトランぺッターはトム・ハレル、チェット・ベイカー、パオロ・フレス、市原ひかりさん、山本ヤマさんetc.夏の海が好き。

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